〒324-0241 栃木県大田原市黒羽向町8 診療科目:内科・消化器科 診療時間: 9:00~12:00(日曜休診)14:00~18:00(水・土・日曜休診)Tel 0287-54-0020 FAX 0287-54-2450
 

磯医院の歴史

  • ・当院の内視鏡設備
  • ・当院の検査設備
  • ・エコな取り組み
  • ・磯医院を支える人たち

磯医院の歴史

院長の秘宝館

院長の秘宝館

磯医院の歴史

磯医院の歴史

≫拡大地図はこちらをクリック

夏山に足駄(あしだ)を拝む首途哉(かどでかな)
この歌は「奥の細道」の行脚に出た松尾芭蕉が黒羽に長期滞在した際に、いよいよ奥州路への旅立ちを決意し、役の行者の足駄を拝み健脚にあやかろうと、その心の準備を詠んだものである。現在では「芭蕉の館」なる資料館も建ち、芭蕉ゆかりの地として黒羽の名を高めている。それ以外は農林業主体の小さな町ですが、江戸時代は黒羽藩大関氏1万8千石の城下町として栄え、特に町を南北に流れる那珂川の舟運で活気をみせていた。

黒羽は栃木県の北東、周囲を那須町・旧大田原市・旧湯津上村に囲まれ、東側は茨城県大子町が隣接する位置にある。清流那珂川は鮎釣りのメッカとして知られ、全国的な芭蕉ブームの一拠点として、更には黒羽城址公園の紫陽花祭りなど風光明媚なところである。東京駅から東北新幹線で1時間10分。那須塩原駅から車で東に20分ほど走ると黒羽に着く。八溝山地の麓に開けた閑静な町であり、その中心部「黒羽向町」に磯医院は在る。
磯家は、わかっているだけでも十一代前にまで遡ることができる旧家である。
過去帳を見ると寛保三年という記述があり、これが現時点で解明している最古の年号であり磯家のルーツである。戒名に玄の字がついている祖先が多く代々医者であったのではないかと思われますが正確には判らず、確実なのは六代目「良三(りょうさん)」からである。

磯医院当主

一代目 磯 惣右衛門勝久
寛保3年(1743) 8月27日没 58歳
二代目 (戒名のみ)
寛政元年(1789) 6月27日没
三代目 磯 玄丈
文化2年(1805) 11月16日没 78歳
四代目 磯 玄仗(良甫)
文化12年(1815) 8月6日没 55歳
五代目 磯 玄春
慶応元年(1865) 11月8日没 70歳
六代目 磯 良三
明治36年(1903) 6月4日没 72歳
七代目 磯 良節
昭和5年(1930) 1月7日没 76歳
八代目 磯 虎之助
大正8年(1919) 9月7日没 42歳
九代目 磯 政光
昭和35年(1960) 3月9日没 59歳
十代目 磯 良男
平成18年(2006) 10月10日没 75歳
十一代目 磯 政裕
平成12年(2000) 1月1日から継承

明治時代の磯医院
明治時代の磯医院

磯家の歴史を語る上で、六代目良三(りょうさん)の残した功績はあまりにも大きくて偉大である。
良三は天保元年(1830)3月黒羽に生まれた。祖父は良甫、父は玄春といい、ともに黒羽藩の医員であった。
良三は弘化2年(1845)8月、15歳のとき志を立てて江戸に上がり、薬研堀の臼井玄仲に師事して漢方・西洋医学・内科・産科を修めた。嘉永5年(1852)5月まで都合6年10ヶ月の間勉強に耐えて帰省し、嘉永5年6月より那須郡石井沢村(現黒羽向町)に開業した。嘉永6年正月より明治3年4月まで黒羽藩藩医であった。明治4年11月、黒羽藩校作新館の医学教育の師として、当時の黒羽県より医学7等教官に任命されている。
種痘が普及してくると、北条諒斉(大田原藩藩医)がそうであったように、良三もまた種痘活動に心血を注いだ。明治5年5月、大学種痘館より種痘術の免許を受け、明治7年2月には宇都宮病院より烏山種痘所種痘方を申し付けられている。その頃の烏山種痘所では診療鑑定方に大木玄朔、種痘方に磯良三、採奨方に高田春耕・小口良平・川又直意、会計方に山口昌夫の名が連なっている。更に明治9年12月には栃木県より黒羽・馬頭・芦野などそれぞれの種痘鑑定方を申し付けられているので、良三は北は芦野(那須町)から南は烏山町まで那須郡一円の種痘業務に携わっていたことになる。そしてその任務に精勤したということにより1円50銭(現在の2万円程度)が下興されている。明治13年7月には貧民患者施療を申し付けられている。明治17年1月には黒羽および芦野種痘所鑑定方として、栃木県より4円を支給された。現代の退職一時金的なものであったのであろうか。
なお、戊辰の戦いののち、明治2年9月1日、兵部省の達しにより若松表戊守として出張を命ぜられた。その出征の一員(医師)として良三の名が連なっている。明治36年6月4日、75歳で没した。墓は明王寺(黒羽向町)にある。

「那須郡市医師会のあゆみ」磯 良男著

教官任命状
教官任命状

種痘免許
種痘免許

磯医院の歴史

拡大図は≫こちら

磯医院には明治33年に建てられた蔵がある。そこに江戸末期以降の磯医院の歴史が眠っている。
蔵の中から当家六代目の良三(りょうさん)の書いた様々な書跡を発見した。そのひとつ明治十九年の日付のある履歴書には、『弘化二年八月ヨリ嘉永五年五月迄東京薬研堀臼井玄仲従都合六年拾ヶ月ノ間漢法西洋医学内科産科修行』『嘉永五年六月ヨリ下野国那須郡黒羽向町二於テ開業』『嘉永六年正月ヨリ明治三年四月迄舊黒羽藩二勤仕』などと和紙に丁寧な墨文字で、経歴が書かれている。
これは江戸末期から明治中期まで丁度時代の過渡期を過ごした良三は、明治の世になると医者は免許制度になりましたが、従来から開業していた医者は上記のような履歴書を持っていたようです。

磯医院の歴史

拡大図は≫こちら

七代目の良節が明治時代に撮った「湿版」と呼ばれる写真である。これはガラス版にネガの状態で焼き付けてあり、当時印画紙が無かったため、黒い紙を敷き、写真として工夫されているものである。写真史としても貴重なものだが、左は19歳の良節が羽織袴姿に洋風ハットが置かれた様子は文明開化を彷彿とさせている。右の写真は明治10年良節が22歳の時に解剖図を前に講演している光景を写した「湿版」ですが、どれも横八センチ・縦十センチ前後の長方形の桐箱に収められている。

磯医院の歴史

9代目政光(まさみつ)は医療活動の傍ら政界に進出し、昭和22年4月より昭和30年2月まで川西町最後の町長を2期務めた。更に昭和30年に川西町・黒羽町・両郷村・須賀川村が合併し黒羽町となると、昭和32年9月4日より黒羽町第2代目町長に就任し公務に携わった。しかしながら医療活動と町政の二足のわらじはあまりにも心身に負担が重く圧し掛かり、昭和35年1月25日現職中に倒れ多くの人に惜しまれながら同年3月9日59歳で没した。墓は磯家の菩提寺「明王寺」にあるが、葬儀の際明王寺までの約1km弱の沿道の両側には花輪が連なったという伝説がある。
写真は政光が昭和7年に磯医院を建て直した際、職人さんたちと撮った集合写真である。
新築された磯医院は趣のある西洋館で、窓はステンドグラスだったという。

9代目政光が突然他界すると、日本大学付属病院の外科学教室に入局したばかりの良男(よしお)が若くして10代目を継承した。
良男は地域医療に携わりながら栃木県警黒羽警察署の嘱託医を務め、警察医として検視業務など警察の捜査活動に積極的に協力した。その長年に渡る功績が讃えられ平成8年7月には警察庁長官より「警察協力章」を受章し、平成13年11月には皇居において「勲5等瑞宝章」が授章された。写真上は「警察協力賞」を受章した際、近親者でお祝いした時の集合写真である。写真下は「勲5等瑞宝章」を授章した際、多くの発起人に開催して頂いた祝賀会でお礼の挨拶をしている写真である。
また良男は黒羽町の児童~青少年の教育に精力的に取り組み、昭和43年10月1日より教育委員を、昭和47年10月1日からは黒羽町教育委員長を長期に渡り務めた。
そんな良男に病魔が襲い昭和60年には心筋梗塞のため3枝ACバイパスを受け、その後進行胃癌を克服したものの平成11年(1999年)には脳出血を発症し、一命は取り留めたものの後遺症のため医療の現場からは完全に引退した。平成12年(2000年)1月1日からは現院長政裕(まさひろ)が11代目を継承し、警察医や産業医など全ての業務を引き継いでいる。
良男の晩年はまさに闘病の連続だった。度重なる腸閉塞・残胃癌手術・胃癌の遠隔転移・脳梗塞再発などで入退院を繰り返し、長引く闘病生活で徐々に体力が消耗し平成18年(2006年)10月10日75歳で帰らぬ人となった。社交的で各方面で人望の厚かった良男の葬儀には多くの参列者が集まり、1400人を超える弔問客に見送られその生涯の幕を下ろした。

とちぎメディカルヒストリー

とちぎメディカルヒストリー

中身は≫こちらよりご覧ください

2012年6月「第113回日本医史学会総会学術大会」が歴史と伝統のある壬生町で開催されたこと、また獨協医科大学の創立40周年を記念して、2013年4月23日に栃木県初の医療史として「とちぎメディカルヒストリー」が獨協出版会から発刊されました。
当院も同誌に152ページから168ページに渡り掲載されました。

PAGE TOPへ